話し手の表現力と聞き手の想像力

自分があまり得意でない分野の話をするときに,聞き手の想像力に頼りすぎていたように思えてきた.
僕の場合はたいてい力学の話で,概念的な話はだいたい伝わるように表現できる(と思ってい{た,る}).
具体的なモデルや計算の話になると,話し手としてのこちらは概念的な話をし,
具体的なやり方やモデルの詳細は聞き手側(たいてい先生や先輩がこれに当たる)の想像に頼って
話を進めているという感じだったように思う.
大体聞き手が想像したことを喋ってくれるので,それでこちらもなんとなく理解はした気になる,
さらに会話自体は進めることができるので,それで満足していた.

最近になって自分が聞き手側として想像力を発揮する必要が出てきて,
ああこういう感じだったのかなという感覚を想像するようになった.
で,ちょっと頼りすぎだった,もしくは今も頼りすぎているという気がしてきた.
さらに学会発表や修論を意識するようになって,自分の表現力の乏しさに気づくのであった.

当たり前だが話し手として表現力を鍛えるというのはすごく大事なことで,
本来は話し手の表現力が十分足りていて聞き手は想像力を発揮する必要もなく
内容を論理的に理解していける状態が最も望ましい.
その状態ができれば,一段上の話に全力を注ぐことができるはずである.
聞き手が想像力をぶん回しているような状態は,聞き手を疲弊させ
一段上への会話のステップアップを阻害してしまう.

というわけで,自省の意をこめてここに書いておく.
ついでに聞き手としての今のスタンスも書いておく.

- 自分が想像している何パターンかの中に,相手が考えていることがあるかどうかを確認する
- 前提を共有できていないと感じたらその場で確認する
- 相手がわからなさそうな顔をしたら,言葉の定義を確認・理解してもらう
- 例示は理解の試金石(ただし喩え話は本質的理解を妨げるリスクもあると考える)

ここまで書いて,話し手と聞き手という言葉が僕が伝えたいことを正確に伝えられる表現かどうか,
少し疑問が湧いてきた.
でももう考えなおす(書き直す)の嫌だから投稿しておこう.
ブログだし.
(妥協ラインと品質要求ラインがいま交差した)